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ニッポン放送『SDGs MAGAZINE』 新内眞衣と学ぶSDGs 初の公開収録で「SDGsとパラスポーツ」を花岡伸和さんと深掘り #前編

ニッポン放送『SDGs MAGAZINE』 新内眞衣と学ぶSDGs 初の公開収録で「SDGsとパラスポーツ」を花岡伸和さんと深掘り #前編

#RADIO

ニッポン放送のSDGs 啓発番組 『SDGs MAGAZINE』では、今年4月からパーソナリティを務める新内眞衣さんのもとでは初となる公開収録を8月20日に東京・駒沢オリンピック公園で行い、そのもようが9月11日の放送で紹介された。今回の公開収録は、東京2020大会1周年記念事業「TOKYOパラスポーツ月間」の取り組みの一つ「TOKYOパラスポーツパークin駒沢」にて実現したもので、テーマは「SDGsとパラスポーツ」。日本パラ陸上競技連盟の常務理事・花岡伸和さんをゲストに招き、SDGsの視点からパラスポーツを掘り下げた。

■新内さんをパーソナリティに迎えて初の公開収録

花岡さんは、大阪・富田林市出身の46歳。高校3年時にバイク事故で脊髄を損傷し、車いす生活に。その翌年、車いす陸上競技と出会って競技の道へ進み、輝かしい実績を上げてきた。

2002年 1500メートルとマラソンで当時の日本記録を樹立。
2003年 IAAF世界陸上競技選手権大会の1500メートルで7位入賞。
2004年 アテネパラリンピック、マラソンで日本人最高位となる6位入賞。
2010年 アジアパラゲームス1500メートルで銅メダル。
2012年 ロンドンパラリンピック、マラソンで5位入賞。

2012年に現役引退を表明し、2013年にハンドサイクリングに転向。現在は選手として活動する傍ら、日本パラ陸上競技連盟の常務理事、関東パラ陸上競技協会理事長を務め、若手選手の指導やパラスポーツの発展に尽力している。

新内 「本日はSDGsとパラスポーツについて学んでいくべく、この方にお越しいただきました。日本パラ陸上競技連盟・常務理事の花岡伸和さんです。よろしくお願いします」

花岡 「よろしくお願いします。皆さん、こんにちは。今日はすごいですね。新内さんのファンが5000人くらい集まっているじゃないですか」

いきなり軽妙なトークで、会場を明るい雰囲気に包んだ花岡さんに、新内さんは「すごい経歴でいらっしゃって、現在はパラ陸連の常務理事、お忙しいですか」と質問。花岡さんは「そんなに忙しくないんです。ただ、こんな雰囲気なんですけどコンプライアンスを担当しているので、真面目な仕事をしています」と、現状を説明した。

新内 「常務理事といわれると、硬そうな印象ですが、普段はどういった業務をされているのですか」

花岡 「コーチングを学んできたので、次世代の選手に関わっていくことをメインにやっていますね。人づくりが仕事です」

新内 「競技に関しては全て・・・フィジカルも、メンタルも、という感じですか」

花岡 「もう全てですね。コーチングの話をしてもいいですか? 日が暮れないように頑張りますので・・・。やっぱりコーチングをするということは、相手の選手の人生を触るようなことなんです。ここに集まっている皆さんも、これまでの人生で出会いとか、この人に出会ったから自分の人生がこうなったとか、新内さんも含めてあるんじゃないんですか」

新内 「そうですね。私はアイドルのグループにいたので、そことの出会いは大きかったと思います」

花岡 「ですよね。そんなふうに人って人との出会いで人生が変わっていくと思っているので、僕と出会ったことで選手の人生がより良くなるようにというのが僕のメインの仕事だと思っています」

新内 「今、何人くらいの選手を見ていらっしゃるんですか」

花岡 「そんなにたくさんいないんですよ。どんどん卒業していくので、若い選手を見始めて15年くらいやってきているのですが、僕のところから卒業して別のコーチのところに行ったりとか、自分でセルフコーチングをやり出したりとか、そうやって成長していく選手を見守って、どんどん送り出しているような感じです」

新内 「先生みたいな」

花岡 「そうですね。選手の中には『お父さん』と呼んでくれる人もいます。2人目のお父さん」

新内 「それくらい密接にということですね。素晴らしいです。ちなみに、2021年度前期のNHK連続テレビ小説『おかえりモネ』では、車いすマラソン選手・鮫島祐希役を務めたダンサー、菅原小春さんの指導をしたり、去年放送された特撮ドラマ『超速パラヒーロー ガンディーン』(NHK)ではパラスポーツ監修もされたりしたとのことですが、そういった仕事も結構あるんですか」

花岡 「昨年の2020年大会前はメディアでもたくさん仕事をさせていただきました。菅原小春さんといえばダンス界で世界一流の方。一流の方と一緒に仕事ができるというのは、自分自身もパラリンピックに出たからかなと。スポーツをしてきて無駄じゃなかったなということを思いましたね」

新内 「監修では、リアリティーを追求して」

花岡 「特に菅原さんご本人がこだわっていましたね。車いすと言っても生活用のものとレース用のもの2種類を使うんのですが、生活用のものに慣れるために、衣装合わせの日に車いすに乗ってもらったんです。すると『乗って家に帰る』とおっしゃられて、NHKから自宅に帰られたんですよ」

新内 「自力で!」

花岡 「自力で。僕が1時間後くらいにNHKを車で出発したら、まだ1キロも行っていないところに菅原さんを見つけたので、相当苦労されていたと思いますけどね」

■花岡さんとパラスポーツの出会い

新内 「かつてはパラアスリートとしてご活躍されていたのですが、もともと運動とかは得意だったんですか」

花岡 「こう見えて運動音痴なんですよ。球技と泳ぎが子供の時から本当に駄目で。ただ運動の中で一つだけできたのが走るということ。17歳で事故をしたので、その頃は足で走っていたんですけどね、運動会の徒競走とか冬の持久走とかは結構早い方でした。運動は苦手だったけど、走ることに関してはできている自覚がありました」

そんな花岡さんが、パラ陸上競技に出会ったきっかけは1992年、高校3年時の出来事。学校が休みだった祝日に峠道を走っている際、バイク事故を起こしてしまった

花岡 「ちょっと調子に乗り過ぎましたね。バイクに乗って走るのが好きだったのですが、高校3年生の時の11月3日、文化の日。学校が休みだったので、朝から山の峠道へ走りに行ったんです。クネクネ道をスピード出して走るのが好きで。でも、朝から夕方までずっと走っていたので、集中力が切れていたんでしょうね。右コーナーを曲がり切れず、膨らんでアッと思ったらガードレールにぶつかるところ。スローモーションで『あー』っと吹っ飛んでいったところから記憶がないんです。結果、背骨が折れました。おへそのところで背骨が折れています。なので、僕の体はへそから下が麻痺しています。動かない、感覚がない」
新内 「高校3年生という多感な頃。当時の心境は」

花岡 「高校3年生って進路を決める時期じゃないですか。僕は大学に行けという親父にも反発して、かといってなりたい職業があるわけでもなく、それでふらふらしてバイクに乗っていたんです。それが事故をしたことによって、どうしても自分の未来と向き合わなくてはいけなくなった。歩けなくなったこの体でどうやって生きていけばいいのか、ということに意識が向きました。そして、学校からは『留年して1学年下と一緒に卒業を目指すか、諦めて退学するかどちらかを選べ』と言われて、『どっちも嫌です。みんなと同じ卒業式に出たいです』と言ったのが、僕が歩けなくなってから初めて自分で見つけた目標になったんです。それが難しさでいうとちょうど良かったかなと思います。自分自身が頑張れば達成できる、でも何もしなかったら無理。自分次第のちょうどいい難しさの目標が見つかったことが、すごく良かったんだと思います」

新内 「2つの選択肢を出されて3つ目の選択肢を自分でつくった」

花岡 「勝手に(笑)」

新内 「それで本当に同じ学年の子たちと卒業できたんですか」

花岡 「それが、できたんです。何の不正もしていませんよ(笑)。入院してから1カ月くらい寝たきりだったので学校も行けないし、自分の力でやれることってほとんどなかった。でも、何とかみんなと一緒に卒業式に出るために最初にやったのが、寝たまま自分でご飯を食べるという行動だったんです。寝たきりになってから1カ月くらい点滴だけで命を繋いでいた。でも、ある日口からご飯を取っても良いですよと言われて、看護師さんが僕の口におかゆを一口スプーンですくって入れてくれたんです。でも、それがものすごくショックだった。だって、ご飯を食べることって通常、手が自由に使える人は当たり前のように無意識でできる簡単なことじゃないですか。ロケ弁を食べるときに、このご飯を全力ですくって食べるなんてことは思わないですよね。それだけ、みんな当たり前にご飯を食べるけど、ご飯を食べなかったら死んでしまう。その簡単だけど命を繋ぐために大事なことを自分の力でできなくなっているという現実と直面して、それが僕にやばいという思いを駆り立てた。そこからリハビリを超頑張って、復学して、卒業式もちゃんと迎えられました。ただ、体育ができないじゃないですか。そこはいい時代でしたね。『花岡、リハビリを頑張ったら体育の単位はやる』と学校側が言ってくれて。20数年前ですから。無事に卒業させてもらって、それが僕にとってはものすごく大きい成功体験になりました」

新内 「一個一個を積み重ねていって」

花岡 「本当にスモールチャレンジとスモールステップの繰り返しです。そのスタートがスプーン一杯のおかゆ。なので、その日の自分の行動が自分の未来を変えていくんだと、今でもちゃんと思っています」

新内 「そして現在は、車いすマラソンをやられているとのことですが」

花岡 「車いすで走るという競技がこの世にあったのが、僕にとって大きかった。たとえば、アイドルという職業がこの世になかったら困りませんか」

新内 「そうですね。私をつくったものでもあるので」

花岡 「僕も、やっぱりアスリートという存在がこの世にあったからこそ、そこを目指せた。先にその道をつくってきた方々がいらっしゃって、そういった方々のおかげで僕自身もアスリートになれた。今日のイベントでも、いろいろな体験ブースが設けられていますけど、テニス駄目、バスケ駄目、水泳駄目で、たまたま走ることが好きだった、だから、車いすマラソンに傾いていったという感じですかね」

新内 「誰かから勧められたんですか」

花岡 「けがをする前からパラ陸上というものがあるのは知っていたんです。ただ、そんなに高いレベルでやっているとは思っていなかった。ナメていたんです。ただ、球技駄目、水泳駄目な僕ですから、他に選択肢がない。それで、走るという競技があるというだけで、完全に上を目指すんだ、パラリンピックに出るんだというのを最初から決めました」

新内 「すごいですね」

花岡 「選択肢が一個しかなかったというのが、僕にとってはいい条件になったんじゃないかなと思っています」

新内 「そこだけに突き進める」

花岡 「そうです」

新内 「最初から他の競技は考えたりしなかったのですか」

花岡 「ひとしきり体験というかチャレンジはしたんですよ。もしかしたら車いすだったらできるかもしれないと、バスケもやったし、テニスもやったし、バドミントンとか、水泳もやりました。でも、子供の頃から苦手意識があるものって大人になっても変わらない。もう、ひとしきりやってみて、自分の短所を努力で良くするよりは、自分の長所をもっと伸ばした方が良いなと思って、そこからは本当にマラソン一本という感じです」

■車いすマラソンってどんな競技?

新内 「車いすマラソンってどんな競技なんでしょう」

花岡 「読んで字のごとくです。車いすで42.195キロ。フルマラソンの距離を走る」

新内 「フルマラソンと一緒!」

花岡 「同じ距離です。でも、足で走るのと車いすのどちらが速いと思いますか。去年パラリンピックを見ていたら分かると思います」

新内 「すみません。全国ツアー中で・・・と言い訳をしてみました」

花岡 「大事な時期だったんですよね(笑)。実は、車いすの方が40分くらいは速いです。足で走るランナーの世界記録って2時間5分を切ったくらいですけど、車いすの世界記録は男子で1時間17分台です」

新内 「速いですね!」

花岡 「タイムだけだと、ちょっとマラソンを知っている人は『ハーフマラソンですか』って聞きますね。平均時速でいうと33キロくらい。大人の男性がママチャリを全力でこぐくらいのスピードで42キロを走り切ります」
パラリンピックの起源とされているのは、1948年7月28日、ロンドン五輪開会式と同日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で行われたストーク・マンデビル競技大会。負傷した兵士たちのリハビリとして、ドイツから亡命したユダヤ系医師ルートヴィヒ・グットマン氏が提唱して開催された。これが1952年にオランダの参加で国際大会となり、第1回国際ストーク・マンデビル競技大会として実施。1960年には五輪が開催されたイタリア・ローマで、第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催され、これが現在では第1回パラリンピックと位置付けられている。

新内 「その後1981年には国際障害者年を記念して、大分で世界初の車いすだけのマラソンの国際大会もスタートしています。ところで、レースで使う車いすって通常のものと違うとのことでしたが、どう違うんでしょう」

花岡 「テレビなどでご覧になられた方はいらっしゃるかもしれないですけど、なかなか実物はその辺に置いてあるわけではないですからね。今日は実物をお持ちしています」

新内 「あっ、すごい!」

花岡 「今日は新内さんのために持ってきました。僕のお古です」

新内 「実際に乗っていらっしゃったものですか」

花岡 「僕がロンドンパラリンピックで実際に使ったものです」

新内 「入賞を果たした時の」

花岡 「世界で5位になった車いすです」

新内 「えー! すごいですね。まず、素材は何でできているんですか」

花岡 「体を収める部分はアルミでできています。その下はカーボンですね。カーボンというとF1の車のフレームや飛行機に使われていて、乗り物をいかに効率よく走らせるか、飛ばすか、そういう素材です」

新内 「普通だと四輪だと思うんですが、競技用は三輪なんですね」

花岡 「最初、始まった時は四輪だったんです。僕が今、乗っているような四輪の車いすで競技は始まったんですけど、乗り物って車輪が多いほど抵抗が増えるんです。なので、四輪から三輪になりました」

新内 「これ、実際に乗ってみても大丈夫ですか」

花岡 「多分、僕の腰回りのサイズだったら新内さん、乗れると思うんですよ。腰回りのサイズが肝なので」

新内 「今、パッと見た感じ、ちょっと無理かも・・・と思っているんですけど」

花岡 「大丈夫です」

新内 「本当ですか?」

花岡 「多分、会場の皆さんからパワーをもらったら乗れると思います(笑)」

新内 「相当細いんですけど」

花岡 「そうなんですよ。ピッタリでつくった方が、体がごそごそと動かなくて力が逃げないんです。あと、両腕で車いすの車輪についている輪っかを漕ぐんですけど、幅が広くなるとこぎにくいので、なるべくみんな座るところは狭めにつくりますね。さあ、皆さん、世紀の瞬間やってまいります(笑)」

新内 「どうやって乗るんですか」

花岡 「僕らはこの上に正座して乗るんですけど、ちょっと無理なので、今回はお尻だけシートのところに乗っけるみたいな感じでチャレンジしてもらえればと思います。まず、ちょっと跨いでいただいて、お尻を斜めに向けながら座っていくとうまいこと入ると思います」

(会場から笑い)

花岡 「笑わないでくださいねと言おうと思ったら、もう既に笑いが起きています」

新内 「あっ! ギリギリ入りました!」

(拍手)

花岡 「良かった。うちのかみさんと新内さんの背格好が結構似ていて座れるので、大丈夫かなと思ったのですが。良かったです」

新内 「背が高い方なんですね。座れなかったらすごく微妙な空気になっていましたよね。きっと(笑)。ここから動かすには、どうすれば」

花岡 「動かし方はシンプルです。あまり後ろに体重をかけると倒れてしまうので、体を前に倒していただいて。車輪についているリングを回せば、そのままどんどん進んでいきます。向きを変えるときは、前についているハンドルを切ると前輪が左右に動きます。マラソンの時は、後ろの車輪の輪っかをグイグイ漕いでスピードを出していって、曲がり角が来たらハンドルに持ち替えて向きを変えるということです」

新内 「マラソンって、42キロ平坦なわけではないですよね。山とか下り坂とかの時もあるんですよね」

花岡 「はい。アテネの時は標高の差が最大で200メートルあったんです。200メートルをずっと上ったり下ったりしていく感じなので、本当にサバイバルレースでした」

新内 「練習でも、この車いすを使っているんですか」

花岡 「練習は同じものを使っていました。これで大体一日50キロくらい、1週間で200キロくらいは走っていました」

新内 「筋トレなどは」

花岡 「やります。あとは、車いすの人が乗る用に手漕ぎの自転車があるんですけど、それを筋トレ代わりに使ってクロストレーニングをやったりしていました」

新内 「レース中、42.195キロ走っていると、メンタル的につらくなったりはしないんですか」

花岡 「やっぱり調子が悪い時、練習ができていない時とかはしんどいんですよ。そういうときってスタート前から嫌で、スタートしてもスピードも上がらない。ライバルに置いていかれて折れそうになるんですけど、そういう時はもう、漕ぎさえすればゴールは待っていると思って走る感じですかね」

新内 「競技人生はどれくらいだったのでしょう」

花岡 「僕はトータルで18年間くらいでした」

新内 「その間にやめたいなと思ったことは」

花岡 「練習は毎日嫌だなと思っていましたね。走ることは好きだけど、しんどいことは別に好きではないので、自分自身の気持ちが乗っている時は練習も頑張れるけど、気が乗らないときは当然あります」

新内 「私も(ダンスの)振り入れはすごく苦手でしたが、完成した作品で一曲踊れると楽しかったりしました」

花岡 「そうですよね。マラソンもゴールがあるから楽しいんです。練習って基本ゴールがないですからね」

新内 「そうなんですよ。何時までに覚えられるかなとか(笑)」

花岡 「一緒です」

■パラリンピックでの活躍

花岡さんは、車いすマラソンでパラリンピックに2度出場。2006年のアテネ大会では初出場で6位入賞を果たした。

花岡 「マラソンの発祥地ってアテネ、ギリシャなんです。同じコース、伝説のコースといわれているマラトンという場所からアテネまでの42.195キロを走ると決まっていたので、やっぱりマラソンランナーとしては神聖な地、聖地に行くという感じ。ふわふわした気持ちでギリシャにいました。到着してから神懸かったような、ふわーっとした感じでずっといました」

新内 「これはいける、と思った瞬間とかは」

花岡 「自分では思わなかったんです。そんなに興奮もしないし、かといって自信があるわけでも、駄目だというのでもなく、本当に平常心だった。でも、終わってから仲の良い選手に『スタート前に花ちゃんを見たときに、やるなと思った』と言われたんです。何か出ていたのかもしれんね、“花岡汁”のようなものが(笑)」

2度目の出場となった2012年のロンドン大会は5位。前回より順位を上げ、同年に現役引退を表明した。

花岡 「この時は、具体的な目標があったんです。ロンドンの時は引退を懸けて行っていたので、自分自身に条件を課していたんです。それがアテネの順位より上でゴールすることと、アテネの時は先頭集団から遠く離れていたので、6位よりも前の順位で、先頭集団でゴールできれば自分は引退しても良しと最初に決めておいたんです。で、まあ1個だけですけど前の順位の5位。そして金メダルの選手から6秒遅れ。手は届かなかったですけどね。でも、背中は十分見えていたので、その瞬間『ああ、これでやめられる』と」

新内 「やりきったという・・・」

花岡 「まあ、負けて悔しんですけど、やり切った感の方が僕にとっては重かったですね」

 (後編へ続く)

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