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新内眞衣と学ぶニッポン放送『SDGs MAGAZINE』目標3「すべての人に健康と福祉を」につながる「世界希少・難治性疾患の日」にまつわる取り組み #前編

新内眞衣と学ぶニッポン放送『SDGs MAGAZINE』目標3「すべての人に健康と福祉を」につながる「世界希少・難治性疾患の日」にまつわる取り組み #前編

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ニッポン放送で毎週日曜日午後2時10分からオンエア中のラジオ番組『SDGs MAGAZINE』。パーソナリティを務める新内眞衣さんとともにSDGsを学ぶ同番組の3月5日放送では、目標3「すべての人に健康と福祉を」にスポットを当て、特定非営利活動法人「ASrid (アスリッド)」 理事長を務める西村由希子さんに『世界希少・難治性疾患の日』=『Rare Disease Day(レア・ディジーズ・デイ)』の取り組みなどについて聞いた。

「希少・難治性疾患」とは、患者数が少ないことや病気のメカニズムが複雑なことなどから治療・創薬の研究が進まない疾患のこと。そうした病気についてみんなで考え、より良い診断、治療による生活の質(QOL)の向上を目指そうとスウェーデンで2008年に始まった活動が2月最終日の「世界希少・難治性疾患の日」=「Rare Disease Day(以下RDD)」だ。現在、100カ国以上で開催されているRDDの“日本版”「RDD Japan」の開催に2010年から取り組んできたのが、今回のゲストの西村さん。東京開催を皮切りに毎年着実に開催地域が増え、希少・難治性疾患の患者や家族と一般社会をつなぐ企画として年々その認知度を高めている。

【西村由希子さん プロフィール】
明治大学理工学部卒業後、同大学の大学院理工学研究科、東京大学理学系研究科博士課程を修了。東京大学にて技術移転・産学連携の研究を行った経験から希少・難治性疾患領域へ関わるようになる。2012年には日本難病・疾病団体協議会の国際交流部事務局長に就任。2014年に希少・難病性疾患領域のNPO法人「ASrid」を設立し、2016年1月に理事長就任。世界中に広がっている難病などについて考える活動『世界希少・難治性疾患の日』=レア・ディジーズ・デイ』を日本で開始し、その事務局長も務めている。

年々拡大するRDDの“輪”

新内 「まず『世界希少・難治性疾患の日』=『レア・ディジーズ・デイ』とは、どういった日なのでしょうか」

西村 「2008年にスウェーデンをはじめとしたヨーロッパで始まった社会啓発のキャンペーンのようなものです。4年に1度の“レアな日”として閏年がありますよね。それと『レア・ディジーズ(希少疾患)』を引っ掛けてできたダジャレのような言葉なので、お勉強しましょうではなく、誰が立ち上がっても良いし、何をしても良いし、どの希少疾患をターゲットとしても良いよということなんです。世界中の方々が、このキャンペーンを取り入れていて、前回は106カ国で開催されました」

新内 「日本では、いつ頃に始まったのでしょう」

西村 「2010年からですね。最初は東京、三重、京都の3地域だけだったのですが、現在は北海道から沖縄まで国内62カ所でイベントやキャンペーンが行われています。私が2008年5月にワシントンDCで行われた国際会議に出た時、その年の2月にヨーロッパで始まったRDDについて『どうだった?』という話をいろいろな人たちがされていたんです。『それ、何?』って聞いて教えていただき、これは絶対に日本でやりたいなと思って、その約2年後に東京で一歩目を踏み出せたという感じですね」

新内 「そもそも、西村さんはこの研究にどうやって行き着いたのですか」

西村 「私は技術移転・産学連携という大学から生まれた成果のようなものをどう社会にうまく出していくか、成果そのものだったり、人だったり、ノウハウだったりを研究していたんです。本当に、さまざまな分野に関わっていたのですが、この希少疾患領域って当時は“ハイリスク・ノーリターン”って言われていたくらい、研究が難しいし、薬をつくるのも難しいと言われる領域だったんです。じゃあ、そのチャレンジングなところで何ができるかなと考え始めて、その領域の人たちに会うようになり、研究者やお医者さん、企業の人とか、そして何より患者さんと家族と会うようになって、その領域の人たちを知れば知るほど、ここに居たいなと思って現在に至っています」

新内 「2008年にRDDを知って約15年たっています。この15年の間に壁などを感じたことはありましたか」

西村 「RDD自体は今年度で14年目になるんですけど、最初は『何で希少疾患なんかターゲットにするんですか』とか、それこそ患者さんたちも知らない人に自分の病気のことを話すという経験すらなかったので、どうやってお互いが触れ合って良いのか分からない、みたいな状態でした。そこから、話しても良いんだと思えるようになったり、企業がこの領域の創薬開発をどんどんするようにもなったりしてきているので、かなり大きく変化は遂げているかなと思います」

新内 「RDDなどのイベントを通じて、気になる方とかはいらっしゃいましたか」

西村 「“病気の日”みたいなことになると、どうしても患者さんやご家族だけのものと思われがちなんですけども、全然そんなことはないんです。東京で開催する『RDD in Tokyo』はコロナの前には丸ビルの1階などのオープンスペースとかを使っていたので、通りがかった人が『何か楽しそうだな』と思って覗いてみたら希少疾患の話だったというように、私たちとしては、いろいろな人たちを巻き込み、いわゆる関係者だけではない人たちに届けることができてきているのではないかなと思っています」

新内 「イベントなど活動を楽しそうに見せる上での工夫もあるのでしょうか」

西村 「たとえば毎年テーマを決めているのですが、そのテーマに合ったキービジュアルをつくってポスターなどを制作しています。カラフルでデザインがかわいい、などそういうところへの関心から入ってきてくださる方もいらっしゃいますし、デザイン性などはすごく気をつけるようにしています」

新内 「RDDには、どのような方が参加されているのでしょう」

西村 「本当に、今では属性が固まっていない気がしますね。たとえば患者関係者が主催者なものもあれば、高校生が主催しているところもありますし、商店街のRDDというのも始まります。何かやってみたいなと思った時にみんなで一緒にやっていきませんかってお声掛けできるような企画に育ってきているかなと思います」

大切なのは知ること、理解すること

新内 「西村さんがRDDに携わるようになったのは2008年の会議がきっかけということでしたが」

西村 「2008年にRDDを知って、翌年から仲間と何ができるかなと考え、2010年に東京で開催するタイミングで事務局をつくって新しいチャレンジをしようとなりました。それが今、14年目に入ったというところです」

新内 「2008年から2年でRDDを日本で開催するって相当早い気がします」

西村 「日本って、もともと希少疾患領域というのが何もなかったんです。薬もないし、お医者さんも少ないし、希少なので患者さんも少ない。同じ疾患の方々でも、会うのが難しいようなパターンもあったりとか、患者会一つ一つがあまり大きくないので横のつながりが取りづらかったりとか、いろいろな要因が無かったり少なかったりしていたんですね。そういうところから、また別の角度で生まれてきた面白さを皆さんが感じてくれたのかなと思います」

新内 「立ち上げられた時の世の中の雰囲気はどんな感じでしたか」

西村 「2010年の時は、人によってはアジテーション(扇動。人々を焚き付ける活動)のようなことをするのかと言われたことはありました。私たちは、そんなことを考えたこともなくて、もっと関心を持っている人たちと普通に話をしていく、そしてみんなで考えてアクションを起こしていくということだけを考えていたので、世の中からはまだそうやって見られるんだなと思った記憶があります」

新内 「一般の方々からすると専門的だし、なかなか立ち入りづらい領域かなとも思うのですが、改めて知っていくことの大切さを伺いたいのですが」

西村 「病気って絶対に誰もならないわけじゃないじゃないですか。ある日、自分が、自分のパートナーが、家族が病気になる可能性ってあるわけですよね。その病気が、たまたま患者さんが少ない疾患になるか、とても多い疾患になるかは定められているものではないので、そういう意味では自分とは違う、関わりのない世界と思わないことが大事かなと思います。そういう人たちが、どんな大変さを感じているのか、反対にどんなことを楽しいと思っているのか。私自身、希少疾患領域の当事者ではないのですけれども、毎年学ぶこと、発見がありますね」

希少疾患では、認知されていないために頼れる人や団体がおらず、孤立・孤独になってしまうことが多いという。患者・家族と一般社会をつなぐための一つのカギとなるのがSDGsの原則「誰一人取り残さない」という考え方といえる。

新内 「孤立や孤独は社会問題になっていますが、希少・難治性疾患の方々は交流を持つことが難しかったりするのでしょうか」

西村 「そうですね。病気がマイナーだと、みんなに話しても『それって何?』と聞き返されてしまったり、『本当にそういう病気ってあるの?』と言われたりとか、子供だと『ズル休みをしているんじゃないの』って言われてしまうこともあったりするんです。そういうことがあると、とても苦しくなってしまうのかなと思います。われわれも、RDDでは毎年メインテーマを変えているのですが、2017年の時には『Leave no one behind』、まさに『誰一人取り残さないで踏み出そう』というテーマで実施し、自分の殻に閉じこもってしまっている人が、もしいたら、RDDに向かって歩いていってくださいねというメッセージを込めて、それからもずっとその気持ちを無くさないようにイベントを続けています」

2005年の経済協力開発機構(OECD)の報告で日本は加盟24カ国の中で最も孤立者(家族以外の人と交流のない人)が多いと指摘されたことなどを受け、2021年には英国に次いで世界で2番目となる「孤独・孤立対策担当室」を設置されるなど対策も講じられてきている。一方で、昨年末にアレクシオンファーマ合同会社と共に行った「希少疾患と社会、私たちが気づきあうためのヒント」を題した啓発イベント(https://sdgsmagazine.jp/2022/12/26/8741/)に出演した厚生労働省難病対策委員会委員長、関西電力病院特任院長、京都大学名誉教授を務める希少疾患の専門家、千葉勉先生はSDGs MAGAZINE編集部が行ったインタビューにて、「日本は難病医療の福祉制度としては他国に比べて充実している点はあるものの、患者さん同士やそれをサポートするNPOやNGOのコミュニティづくりが進んでいない」と指摘していた。新内さんはこの話題に触れ、西村さんに現状を聞いた。

<インタビュー記事はこちらから>
希少疾患・難病医療の現状とこれからの課題感 専門家に聞く私たちがいまできること

西村 「日本は法政策という意味では世界で一番古くから、この希少疾患・難病の領域で歴史を持っているんです。1972年に難病対策要綱ができたのですが、これが世界で最初に行われた政府からのアクションなんです。言い換えれば、すごく歴史が長い分だけ、大変な思いをされている方がたくさんいらっしゃって、そういう方々が閉じこもってしまったり、同じ疾患の人たちで壁をつくってしまったりとかっていう傾向になった時期もあった。そうなってくると、横のつながりを自分たちで壁を壊してつくっていくのってなかなか難しいですし、もう少し別軸で繋げていくような活動や団体が必要だったのかなと思います。それが今、少しずつできているのかなと思います」

新内 「それだけ長い歴史がある日本ですが、NPOとかは他の国の方が多かったりするのでしょうか」

西村 「たとえばアメリカでは(希少・難治性疾患に関する法律が)1983年にできたのですが、その頃にレア・ディジーズという言葉や、希少疾患の医薬品を指す言葉も生まれてきていたので、薬をもっとスムーズに開発していこうとか、ちゃんと税金を使って国でサポートしようみたいな動きが患者サイドだけじゃなく、企業も、政府側も、一緒になってその法律をつくっているんです。時代がもし10年違っていたら、日本もそうした足並みが揃っていたかもしれませんが、スタートラインで揃っていると、皆さんが同じ方を向いているので、その分だけ皆さんのつながりもつくりやすくなるし、つながりをつくる組織もできやすくなる。そういった歴史的な違いはあるかなと思います」

新内 「2010年から14年間でNPO法人が増えていった実感はありますか」

西村 「日本では、患者会といわれていた人たちが組織をつくって、組織の中で研究を進めてくださいとか、薬をつくってくださいといったアクションを取るようなところもあります。反対に、ある疾患に特化しないような形、たとえば車椅子に乗っている人たちをサポートしていこうとか、今までにない形のNPOも確実に増えていっていると思います」

新内 「いい傾向にはあるということですね」

西村 「そうでうすね。人ごとになりすぎないという表現が適当でしょうか。対岸の話と思っていても、その人たちが、何をできるかな、やってもいいかなと思えるような場所が日本中にたくさんあったら、志のある方に知っていただける。そういう取り組みは、これからも続けていきたいなと思っています」

RDDという取り組みを今回初めて知ったという新内さんは「2008年にRDDを初めて聞いて、2年後の2010年に開催するまでに持っていく力は本当に素晴らしいなと思いました」と西村さんの行動力、実行力に感銘を受け「今年で14年目ということで、だんだん世間の目が変わってきたというのを実感されたともおっしゃっていたので、私も知るところから始めていかなければと思いましたし、いろいろなところにアンテナを張っていかなければと思いました」と興味・関心を持つことの大切さを改めて感じた様子だった。

(後編に続く)

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