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新内眞衣と学ぶニッポン放送『SDGs MAGAZINE』 モーリー・ロバートソンさんと考えるG7広島サミットと目標16「平和と公正をすべての人に」 #前編

新内眞衣と学ぶニッポン放送『SDGs MAGAZINE』 モーリー・ロバートソンさんと考えるG7広島サミットと目標16「平和と公正をすべての人に」 #前編

#RADIO
  • 平和と公正をすべての人に

ニッポン放送で毎週日曜日午後2時10分からオンエア中のラジオ番組『SDGs MAGAZINE』。先進7カ国首脳会議(G7サミット)が広島で開かれたことを受け、5月28日の放送では目標16「平和と公正をすべての人に」をテーマに、国際政治ジャーナリストのモーリー・ロバートソンさんをスタジオに招き、パーソナリティを務める新内眞衣さんがサミットの意義などに迫った。

モーリーさんと広島の縁

5月19日から21日に広島で開かれたG7サミットを、岸田文雄首相は「歴史的に大きな意義があった」と総括した。G7首脳が原爆資料館を視察したり、ロシアの侵略を受けるウクライナのゼレンスキー大統領が電撃参加したりと、さまざまな話題を提供し、成果を上げた今回のサミット。新内さんは、サミットを現地で取材したモーリー・ロバートソンさんにG7広島サミットとSDGsの目標16「平和と公正をすべての人に」について、2週にわたって話を聞いた。

【モーリー・ロバートソンさんプロフィール】

1963年、アメリカ人の父、日本人の母のもと、アメリカで生まれ、5歳の頃に父の転勤で広島に移住。富山県立高岡高校を卒業した後、1981年に東京大学とハーバード大学に同時合格。1988年にハーバード大学を卒業し、ラジオパーソナリティとして活躍。報道・情報番組やバラエティ番組に出演し、タレント、ミュージシャン、国際政治ジャーナリストとして幅広いジャンルで多才さを発揮している。

新内 「今回の広島サミットを受けて、さまざまな番組やメディアにご出演されていたモーリーさんですが、実は幼少期を広島で過ごされたとか」

モーリー 「そうですね。広島にあるABCC(原爆傷害調査委員会)という研究所にアメリカ人の父が8年間勤めていたんです」

ABCCとは原爆が長期的に人体にもたらす影響を調査するため、アメリカのトルーマン大統領が出した大統領令によって1947年に広島に設立された機関。1975年には日米が共同で運営する放射線影響研究所へと改組された。

新内 「原爆被爆者の調査をされていたということですか」

モーリー 「そうですね。広島の県民の方からも、さまざまな葛藤する感情が向けられる研究機関で、当初はアメリカで核戦争が起きてもアメリカ人を守れるようにということを目的につくられたものでした。そういう曰く付きの研究所ではあったのですが、これは1945年時点の話。20年以上たって1960年代になると、敵対していた日本とアメリカは同盟国・友好国になっていき、日本を敵だとみなす世論は薄れ、私の父らアメリカの若い世代の研究者は広島に来て日本人と結婚する人も多かったんです」

キューバ危機が世界にもたらした核の恐怖

変化のきっかけとなったのが1962年10月に起こったキューバ危機だったという。当時のソ連がキューバにミサイルを設置したことを巡り、米ソが対立。核戦争寸前までいき、世界を恐怖に陥れた事件だ。

モーリー 「アメリカがソ連と核ミサイルを撃ち合いそうになって、すんでのところで回避された。メディアを通じてそれを知ったアメリカ国民も、これはさすがにまずいという話になったんです。父が私を広島に連れて行った1968年には、アメリカもソ連も何とかして核を使用しない方向に持っていこうという動きになっていたんです。そして、研究者たちは何とか核戦争が起きないように広島の真実を伝えたいというふうに変わっていっていたんです」

新内 「だんだん世論が変わっていった流れで、機関も変わっていったということですか」

モーリー 「はい。あと、これはいろいろな側面があるのですが、アメリカ国民の世論がキューバ危機を経て核戦争は嫌だ、怖い、勝てる戦争ではないと思い始めるとともに、放射能による白血病は治らないということを知った。当初の、治療法が分かれば治りますよ、ペニシリンみたいなものが出てきますよという希望的観測がABCCなどの情報で間違ったものであることが分かったんです。ABCCにいた研究者たちは、父の世代の60年代以降、絶対に核兵器を使わせないため、より厳格で、主観の入っていないデータを出すべきだというようになっていきました。それは、ソ連とアメリカが核の使用を踏みとどまることに大きく貢献したと思います。広島に関する報道も、アメリカ政府が検閲してアメリカ国民になかなか伝わらにようにして、要は恐怖から国民の目をそらしていたんです。キューバ危機を受けて、科学者も声を大にし、メディアも報道したので、そのミスリードが是正されていったんです」

一方で“抑止力”としての核は存在感を増し、1980年代のピーク時には全世界で核兵器は7万発(2022年1月時点の核兵器保有数は1万2705発)を数えるまでになった。

モーリー 「1980年代、私がアメリカの大学に行ってアメリカで過ごした時代は、いわゆるアメリカは核をバリバリにつくった時期です。破壊力でいうと大中小のうち、小でも全て広島、長崎に投下されたもの以上ですから・・・」

新内 「えっ!」

モーリー 「死の灰で生態系は壊れるし、核兵器は一発使ったら終わりなんです。原爆資料館に全ての首脳が70年代くらいに行っておけば、これは愚かなことなんだと気付いたはずです。ところが、みんなそれをしなかった。広島を見つめなかった」

新内 「目を背けたい現実ではありますからね」

モーリー 「アメリカとソ連がそれぞれの形で世論を操作し、無知の中で何千発が何万発にもなっていったんじゃないかと思います。私は10年間アメリカにいて、アメリカ人の友達に広島に住んでいたことや、(核戦争になったら)絶対にみんな死ぬということを伝えた時に『そんなことはないでしょ』と言われました。すごく腹が立ったし、『こんなにひどいことがあるんだ』『ちゃんと向き合え』と言っても『でも、アメリカが悪いとも言い切れない。日本だって先に真珠湾を攻撃したから』と言われる。『えー! そういうので返す?』と思いましたよ。つまり、原爆、核兵器の話をするときは相手の社会がそれに向き合っていないと、どんなに話しても何だかんだで聞かない状態になっちゃうことを知ってしまったんです」

のどかさとものものしさが同居した広島の街

新内 「そして時を経て、縁の地である広島でサミットが行われました」

サミットとは、フランス、アメリカ、英国、ドイツ、日本、イタリア、カナダの7か国、並びに欧州理事会議長及び欧州委員会委員長が参加して、毎年開催される国際会議。自由、民主主義、人権などの基本的価値を共有するG7首脳が一つのテーブルを囲みながら、世界経済、地域情勢、様々な地球規模課題について、率直な意見交換を行う場だ。今回のサミットの背景には、コロナ禍に見舞われた後の世界の在り方、国際秩序の根幹を揺るがすロシアによるウクライナ侵略があり、「法の支配に基づく国際秩序の堅持」と「グローバルサウス(=インド、インドネシア、南アフリカ、トルコなど南半球に多くある新興・途上国)への関与の強化」という2つの視点を持って行われ、ウクライナのゼレンスキー大統領やグローバルサウスの首脳も招待された。

新内 「改めて、今回のサミットを終えてみての率直な感想はいかがでしょうか」

モーリー 「本当に、20世紀以降の歴史、専門用語が満載過ぎて、一見さんお断りくらいのハードルがありますよね」

新内 「そうですね」

モーリー 「ただ、それだけ複雑な方程式のようになって、ある種世界のどの国も回答を見出せない状況になってはいるのですが、私はG7でこの方程式が(解明に向けて)多いに前進したと思いました」

新内 「おっ! といいますと」

モーリー 「核抑止と核廃絶。核抑止というのは例えば日本はアメリカの核の傘、大きな傘を広げて日本を北朝鮮なり、あり得るとしたら中国なり、核を持っている国が日本を核で攻撃した場合、アメリカは核で打ち返す。なので、犠牲者は双方に出ます。みんな死にます。その恐怖が最初の一発を打つのを止めさせようというのが、核の傘の考え方ですね。これは現存させたまま、今ロシアのプーチン大統領が頻繁に口走っている核をベラルーシに配備したとか、使っても良いんだぞとか、そういうことをよもや考えさせないようにするために、世界の経済で主導権を握る立場である7カ国ががっちりスクラムを組んで、その意志を確認したというのは大きかったと思います。ですから核の使用を遠ざけるという直近の目的をG7は果たしたと思います」

新内 「実際に広島に行かれていたと聞きましたが、空気感みたいなものはいかがでしたか」

モーリー 「市の中心街もそんなに強めに開発されていないので、私が少年期を過ごした時と同じようにのどかでした。平和公園と呼ばれるエリアにはまだまだ緑がたくさんあり、ABCCの建物があった(広島市南区にある標高71メートルの)小高い山、比治山にはクマバチがブーンと飛んでいて、昔の広島のまんま。私が中学、高校までいた広島と同じだなと思いました。一方で、日本中から警察が2万人以上集まるなど重要な警護スポットになっていて、交通規制があるときには横断歩道を渡れなくなっちゃってコンビニにも行けなかったほど、ものものしい雰囲気もありました。私がよく知っているのどかな広島と、警察官の方が頑張っている姿が、オーバーレイで同時進行していましたね」

新内 「かつての広島を知っているモーリーさんが、そこに行った意味があると思うんです。来週も、そのお話をたくさん聞かせていただきたいなと思います」

広島と深く関わりのあるその生い立ちについて語ってくれたモーリーさん。その出自があるからこそ、核の問題に正面から向き合い、今回のサミット取材にも“自分ごと”として臨んだことが、言葉の端々ににじんでいた。新内さんは「核の怖さは今となってはいろいろな情報で知ることができますが、当時の人はここまで酷いものだったと実感していなかったという話も伺えました。私たちは今、情報がたくさんある中にいるので、それにちゃんと向き合っていくことが大事だと思いました」と、言葉に力を込めた。

(後編に続く)

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