「気候危機は健康危機」——ヘルスケア産業が挑む“共創”の脱炭素戦略
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猛暑や豪雨が日常化するなか、気候変動はすでに私たちの健康を脅かしている。熱中症の搬送件数や関連死の増加、感染症リスクの拡大、食料供給の不安定化――。もはや未来の懸念ではなく、いま目の前で進行している現実だ。こうした課題に産業界、行政、学界がどう向き合うのか。その道筋を探るべく、2025年9⽉16⽇にアストラゼネカ株式会社主催のフォーラム「気候変動と健康—未来へのアクション」が、⼤阪・関⻄万博 英国パビリオンにて開催された。
危機の「いま」と責任の共有
冒頭の挨拶に立ったのは、アストラゼネカ株式会社の堀井貴史社長。「観測史上最も暑い夏が更新され、熱中症警戒アラートはわずか4年前の約2.8倍に増えています」と話し、気候変動が健康課題に直結する深刻な現状を示した。
同社ではすでに全国営業車両1500台以上の100%EV化や事業所の再エネ化、飛行機ではなく新幹線利用を推進すると同時に使用分の電力量の再生可能エネルギー調達などを推進。「人、社会、地球、この3つの健康を追求する企業として、科学的根拠と社会的使命に基づいて、温室効果ガスの排出削減をはじめとする気候変動の対策に全世界で取り組みを進めております」と掲げた。そして、「製薬業界におけるCO2排出の約9割はスコープ3にあたり、製造や流通など事業活動以外の領域から生じています。そのため、脱炭素の実現にはビジネスパートナーとの協力が不可欠です。業界団体や卸企業と連携しながら課題解決に取り組むことで、未来の課題に立ち向かう力を培っていきたいと考えています」と産業界全体の共創をさらに加速させると強調した。
気候変動が及ぼす健康への影響


基調講演を行った東京大学大学院教授の橋爪真弘氏は、気候変動が引き起こす健康被害を具体的なデータで示した。熱中症による救急搬送は直近5年平均で年間7.5万人にのぼり、2024年は「2,000人以上がなくなった」と、年々深刻化する現状を語った。さらに、心疾患や呼吸器疾患の悪化を含む「暑熱関連死」は2015〜2019年の5年間で約3.3万人に達しており、熱中症死の7倍以上にあたるという。
「暑さはもう自然災害であるという認識を持つことが重要」と橋爪氏は語る。今後気温が3℃上昇すれば、暑熱関連死は全国で2倍以上に、救急搬送は最大3倍に達すると予測する。感染症の拡大、花粉症期の長期化、水害や台風被害による外傷やメンタルヘルス悪化など、健康への影響は多方面に広がると警鐘を鳴らした。
ヘルスケア産業のGHG排出と脱炭素への挑戦


続いて登壇した国立環境研究所の南齋規介氏は、ヘルスケア産業が抱える温室効果ガス排出の実態を示した。「医療機関が直接排出する量に比べ、サプライチェーン由来の排出量は8.6倍に達しています。病院や診療所、薬局、介護、製薬などを含めたヘルスケア分野全体では、2020年に日本の総排出量の約5.6%を占めます。内訳としては、医療機関61%、調剤薬局13%、介護15%、市販薬や輸出品4%、建物や医療機器などの固定資本18%と、多岐にわたる領域でCO2排出が生じています」と説明した。
こうした現状を踏まえ、イギリスやアメリカ、中国などではすでに「どこで、どれだけ排出しているのか」という把握が進み、削減への道筋を描いている。特にイギリスは積極的で、排出量を段階的に下げ「最終的にネットゼロへ到達する」という具体的な計画を立てていると紹介した。
一方で日本は、2024年に*ATACH(気候変動と健康に関する変⾰的⾏動のためのアライアンス)に正式加盟し、政府が「保健医療部門でネットゼロを目指す」と宣言したものの、まだ明確な計画には至っていない。試算によれば「もし医薬品にカーボンゼロ基準を導入すれば、それだけで全体の約2割を削減できる」という。さらに「全国的な電力の脱炭素化」や「車両・職員の電動化」などを組み合わせることで、初めて大きな削減効果が見込まれる。つまり「これさえやれば解決する」という単独の策はなく、「小さな取り組みをいかに積み重ねていけるか」が鍵となるという。先行するイギリスの事例が示すように、日本もまた広く多面的な取り組みを進めていくことが求められている。
*ATACH(気候変動と健康に関する変⾰的⾏動のためのアライアンス)︓気候変動枠組条約第 26 回締約国会議(COP26)で設⽴された、WHO が事務局を務める国際的なアライアンス
共創の道筋を探る、パネルディスカッション


後半のパネルディスカッションでは、「バリューチェーンの脱炭素化に向けての共創」をテーマに、行政・製薬業界・卸売業界・環境行政・そして主催企業から代表が登壇した。モデレーターの日本医療政策機構・菅原丈二氏の導入を受け、厚⽣労働省 ⼤⾂官房 国際課 国際保健管理官の井筒将斗氏は、気候変動と健康をめぐる国際的な潮流を整理した。COP26で気候と健康が本格的に議題化され、2023年のCOP28では初めて「ヘルスデー」が設けられ、各国の保健当局が大臣級で集まり「適応策」だけでなく「排出削減=緩和策」にも正面から取り組む姿勢が鮮明になったと説明した。ATACHに加盟し、2024年には保健医療部門でネットゼロを目指すと閣議決定に明記したことを受けて、「一足飛びに解決できるものではないが、国際社会と足並みをそろえ、着実に進めていくことが重要」と語る。
さらに「熱中症や感染症など、従来は“適応”の議論が中心だったが、今や、医療そのものが排出源である以上、緩和策に取り組むことが不可欠」と井筒氏は述べ、製薬業界を含むヘルスケアセクターの役割の大きさを強調。加えて、自身も参加した国際的なサステナブル・マーケット・イニシアチブで、アストラゼネカやサノフィなどが先導的に取り組む姿勢を紹介し、日本の産官学連携の加速に期待を寄せた。
⽇本製薬⼯業協会 環境問題検討会 委員⻑/第⼀三共株式会社 サステナビリティ部 企画グループ ディレクターの有馬覚氏は、「Scope3が最大の課題」と話す。2024年には初の「脱炭素への取り組みのお願い」をサプライヤーへ発出したが、「各社で要請がバラバラ」という現場の戸惑いも顕在化。そこで環境省の「バリューチェーン全体での脱炭素化推進モデル事業」に参画し、「公平で透明なルール」を官民連携で整える。さらに優れたサプライヤー実践を表彰・共有する新制度で横展開を狙う。「ヘルスセクターでの共通言語づくりが、負担軽減と公正な評価につながる」と語った。
環境省 地球環境局 地球温暖化対策課 脱炭素ビジネス推進室 室⻑の小野裕永氏は、モデル事業の肝を「バリューチェーン全体で通用する算定ルール」と位置づける。従来はScope 3にあたる原材料(カテゴリー1)中心だったが、物流や使用段階(カテゴリー4、9、10)にも踏み込むという製薬業界の挑戦を評価した。最終的なゴールは消費者だ。「グリーン製品・サービスを選んでもらう行動変容が必要」と話し、企業の努力がコスト上昇を招きがちな現実も直視しつつ、普及の仕組みづくりを急ぐ。
日本の医薬品卸の特徴として、一般社団法人日本医薬品卸売業連合会 理事/株式会社セイエル代表取締役社長の河野修蔵は“日本型物流”の特徴を紹介した。配送先は約16万件と米国の倍以上にのぼり、自社配送率も80〜100%と高い。そのうえで、「取り扱い医薬品の総ユニット数は直近4年間で約7%増加した一方、CO₂排出量は約10%削減できた」と話す。中国地方での共同配送により車両を4台から1台に減らし、AI配車で至急配送を7割削減した事例を示した。「病院や薬局の理解が配送回数の削減を後押しする」とし、災害時の能登で翌日から供給を再開できた事例も紹介。「安定供給と脱炭素の両立」が卸業界にとって欠かせないテーマであると示す。
アストラゼネカ株式会社 取締役 執⾏役員 CFOの吉越悦史氏は、社内外の取り組みを「これは冒険だった。鍵は“諦めの悪さ”」と話す。営業車のEV化は豪雪地を含め1600台規模へと広がり、東京・大阪のオフィスはテナント単位の再エネ導入を実現。工場はソーラー電源へ再設計した。難所は、同社もScope3。「相手に動いてもらう」ため、購買が自ら学び、“何を頼むのか”を言語化して説明・依頼を繰り返したという。「一社だけでは1.5℃にインパクトは生まれない。国・企業・業界・世代を越えて“共創”するしかない」と改めて力を込める。
総じて、議論が示したのは三層構造だ。①技術(EV、再エネ、AI配車、共同配送など現場の工夫)、②制度(算定ルール、共通指標、表彰・共有といった“物差し”)、③行動(消費者の選択や現場のオペレーションの見直し)。この三層を“共創”で束ねることが、ヘルスケアのネットゼロへの現実解である。最後に吉越氏はこう結ぶ。「何が起きているのか。なぜそれをやるのか。正しい理解を『伝える』ことが一番の推進力になる」。井筒氏も「一足飛びではないが着実に」と呼応する。議論の熱気は、会場を出た後の現場や政策にどう息づいていくのか——“連携の設計図”が、ここから具体化していく。
執筆/Mina Oba






